歌詳細

天雲の向伏す国のますらをといはゆる人は天皇の神の御門に外の重に立ち候ひ内の重に仕へ奉り玉葛いや遠長く祖の名も継ぎゆくものと母父に妻に子どもに語らひて立ちにし日より垂乳根の母の命は斎瓮を前に据ゑ置きて片手には木綿取り持ち片手には和たへ奉り平らけくま幸くませと天地の神祇を乞ひ祷みいかならむ歳の月日かつつじ花にほへる君がにほ鳥のなづさひ来むと立ちて居て待ちけむ人は大君の命恐みおしてる難波の国にあらたまの年経るまでに白たへの衣も干さず朝夕にありつる君はいかさまに思ひいませかうつせみの惜しきこの世を露霜の置きてゆきけむ時にあらずして

項目 内容
番号 3-443
漢字本文(題詞) 天平元年己巳。
攝津國班田史生丈部龍麻呂自經死之時、判官大伴宿禰三中作歌一首(并短歌〕
漢字本文 天雲之向伏國武士登所云人者皇祖神之御門尒外重尒立候内重尒仕奉玉葛弥遠長祖名文継徃物与母父尒妻尒子等尒語而立西日従帯乳根乃母命者齋忌戸乎前坐置而一手者木綿取持一手者和細布奉平間幸座与天地乃神祇乞祷何在歳月日香茵花香君之牛留鳥名津匝来与立居而待監人者王之命恐押光難波國尒荒玉之年經左右二白栲衣不干朝夕在鶴公者何方尒念座可欝蝉乃惜此世乎露霜置而徃監時尒不在之天
読み下し文(題詞) 天平元年己巳。
摂津国の班田の史生丈部竜麻呂自ら経き死りし時に、判官大伴宿禰三中の作れる歌一首(并せて短歌〕
読み下し文 天雲の向伏す国のますらをといはゆる人は天皇の神の御門に外の重に立ち候ひ内の重に仕へ奉り玉葛いや遠長く祖の名も継ぎゆくものと母父に妻に子どもに語らひて立ちにし日より垂乳根の母の命は斎瓮を前に据ゑ置きて片手には木綿取り持ち片手には和たへ奉り平らけくま幸くませと天地の神祇を乞ひ祷みいかならむ歳の月日かつつじ花にほへる君がにほ鳥のなづさひ来むと立ちて居て待ちけむ人は大君の命恐みおしてる難波の国にあらたまの年経るまでに白たへの衣も干さず朝夕にありつる君はいかさまに思ひいませかうつせみの惜しきこの世を露霜の置きてゆきけむ時にあらずして
訓み あまくものむかふすくにのますらをといはゆるひとはすめろきのかみのみかどにとのへにたちさもらひうちのへにつかへまつりたまかづらいやとほながくおやのなもつぎゆくものとははちちにつまにこどもにかたらひてたちにしひよりたらちねのははのみことはいはひべをまへにすゑおきてかたてにはゆふとりもちかたてにはにきたへまつりたひらけくまさきくませとあめつちのかみをこひのみいかならむとしのつきひかつつじはなにほへるきみがをしどりのなづさひこむとたちてゐてまちけむひとはおほきみのみことかしこみおしてるなにはのくににあらたまのとしふるまでにしろたへのころももほさずあさゆふにありつるきみはいかさまにおもひいませかうつせみのをしきこのよをつゆしものおきてゆきけむときにあらずして
現代語訳 天雲が遠く地平に横たわる国の勇敢な男と言われる人は、天皇の神の宮殿の外の御門を立ち守り、宮の中ではお側近く仕え、美しい葛のようにいよいよ末長く、父祖の伝えた名を受け継いでゆくものだ、と、父母妻子に語って故郷を出発した、その日以来、はぐくみ育てた母君は、神酒のかめを前に据え、片手には木綿の幣を、片手には和栲を捧げ、事もなく健やかにいるようにと、天地の神々に祈り、いつの日にか、つつじ花のごとく晴れやかなわが子が、波を越えて帰りつくかと、立っても座っても待っていたそのあなたは、天皇の御命令をかしこんで、光り照りわたる難波の国に、あらたまの幾年もの間、白い布の衣を干す暇もなく、朝夕をはげんで来たあなたは、どう考えておられたのだろうか、現実の命惜しいこの世を、露霜のように後に置いて行ってしまったのだろうか。まだその時ではないのに。
歌人 大伴宿禰三中 / おほとものすくねみなか
歌人別名 副使, 副使 / ふくし
歌体 長歌
時代区分 第3期
部立 挽歌
季節 なし
補足 大伴三中/おほとものみなか/大伴三中
詠み込まれた地名 摂津 / 大阪
関連地名 【故地名】摂津の国
【故地名読み】つのくに
【故地説明】国名。大阪府の一部と兵庫県の東南部の地。ほぼ現在の阪神地帯にあたり、当時も大和に対する外港兼副都としての重要性から摂津職が置かれた。
【故地名】難波の国
【故地名読み】なにわのくに
【現在地名】大阪府
【故地説明】大阪市およびその周辺の地域。上町台地に沿った海辺を中心に難波津が営まれ、当時海内無比の要津。仁徳・孝徳・聖武の皇居も営まれた。
【地名】難波の国
【現在地名】大阪市およびその周辺の地域